美意識とは広辞苑に「美に関する意識、美に対する感覚や判断力」と書かれています。
美意識は文化的・表現・その他あらゆる角度から考える事が出来ます。
例えば茶道は「もてなし」と「しつらえ」の美学と言われています。
亭主が、路地を整え茶室に掛物・釜・茶碗等を用意するおもてなしの準備は、
「日本的な美の世界」といわれ日本の風土が生んだ文化です。
また、「和敬清寂」の精神を説き、亭主とお客様の間にかよう
人間的なぬくもり・思いやりを最も大切にします。
茶道は定められた方法でお客様にお茶を振る舞う事を言いますが、
その茶道に潜在する「型」で美しい姿と心がつくられていきます。
まずは「型に心は宿る」と説き
稽古をとうし「見習う」事により茶の湯の心が伝えられる、
型という振る舞い方をとうし、心を養い人と人の心を結ぶと説いています。
それは「型」だけでなく、体で覚えたもてなしの心
「一期一会」の精神に裏付けられています。
茶道には「型」という約束事があります。
襖の開け方、
お辞儀の仕方からはじまって、
歩き方、
お道具の運びかた、置き方、置き場所、
袱紗さばき、
茶杓・茶筅・棗・茶碗等の扱い・・・
お茶の点て方
菓子やお茶のいただき方すべてわずかな事さえ違えてはいけない「型」があります。
これらを一つ一つ覚えていく。
頭で覚えているようではスムーズな身のこなしにも成らず、
おおよそ自然体のままの「心を込めたもてなし」という
「おもてなし」の基本精神には及びません。
其れを身につけるには体で覚えるしか無く、
稽古の中で礼儀・作法・何気ない立ち居振る舞い等の動作が身に付いてきます。
そうして「茶の湯とは、耳に伝え目い伝え、心に伝え、一筆もなし」とも言われています。
師匠から弟子へどうとらえるか、どのように扱うか等が細かく伝えられていきます。
繰り返し繰り返しお稽古する中で
おのずから「もてなし」・「しつれえ」の茶の心を知っていきます。
型を見習う中で身のこなし・ものの扱い・心を調え日常生活万般を、美しくしていけるようになります。
良く似たものに禅があります。
座禅の時、座禅堂に入るにはどちらの足から入るとか坐りかた、息の整えかた、
目線、手の置き方、と言うように決まりがあり、口のきき方・箸の上げ下しまで
徹底して注意されます。そこで日常生活の大切さを悟らせると言います。
「禅」の「不立文字」「教外別伝」を基本とし
「文字は、解釈の仕方で如何様でも成り、真実の仏法は無く成る事があるので
文字だけでなく、禅の師匠の全人格をもって伝える」と言う事だそうで
「禅」の精神は、体験によって伝えるものこそ神髄であると言われるそうです。
茶道の精神は体験により伝える・体で覚えるという、禅宗の考えをよりどころとしております。
ここで少し茶道の流れを少しお話してみましょう。
お茶は遣唐使として唐に留学した僧侶達が持ち帰ったのが始まりの様ですが、
初めは薬として扱われ、その後長く廃れていました。
鎌倉時代に禅僧・栄西が宗より抹茶を移し入れた事が始まりと言われ
禅宗が日本全土に広まると共に茶道も全国に広まりました。
室町時代には金閣寺に象徴される北山文化を経て、
禅宗の影響を受けた東山文化で、
簡素で深みのある「茶の湯」の決まり事がまとまっていきます。
建物でも書院造りが生み出され「書院茶」の作法は完成します。
室町中期の僧でもあり茶人だった村田珠光は、茶の湯が人間の成長をうながすという
「心の文」を残し詫び茶の祖と言われています。
「心の文」の中に、唐物中心の茶の湯の道具に対し、和物をどう調和させ新しい美をつくるかと「和漢のさかいをまぎらかす」という言葉を残していますが、
吉田兼好の不完全の美を詠った「月も雲間のなきは嫌に候・・・」と
明るく輝く満月よりも雲の間に見え隠れする月の方が美しいとの不完全・不足をかえってよしとし、心の目で見る美しさを称える禅の精神的・芸術的内容に影響を受けた茶道がつくられ、背景には和歌や連歌の世界の美意識の影響を受けています。
球光は茶の儀式的な型よりも、茶と向き合うものの精神を重視し大部屋では心が落ち着かないと座敷を屏風で四畳半にかこった事が茶室へと発展していきます。其れは必然的に装飾を制限し、茶事というものを「限られた少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えました。
其の弟子紹鴎は、不完全だからこそ美しいとする珠光の「不足の美」に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的にありがたがるのではなく、日常生活に使っている雑貨を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め「詫び」を求めていきました。
その詫びの対象は茶道具だけでなく茶室の構造やお手前の作法など、茶会全体の様式まで拡大していきます。
そして利休は、茶器の大半が中国・挑戦からの輸入品でしたが、
自ら茶道具を創作し「これ以上の何も削れない」という極限まで無駄を削って
緊張感を生み出し詫び茶を完成させました。
信長・秀吉につかえ、後に秀吉の「切腹せよ」との伝言で切腹享年69歳。実質10年で現在の茶の湯の体形を作り上げます。
その後、利休の高弟・古田織部が家康に命じられ2代将軍秀忠の茶の湯の指南をしますが、
人気を集め始めると織部が利休のように政治的影響力をもつ事を恐れられ切腹を命じられます。
徳川幕府の治世で社会に安定を求められるようになると、
利休や綾部の様に規制の価値観を破壊し新たな美を生み出す茶の湯は危険視され
保守的で雅な「奇麗さび」と言われる小堀演習羅の流れに成っていきました。
利休の孫・千宗旦が再興し武者小路千家官休庵・表千家不審案・裏千家今日庵を起こし今に至ります。
此の様に継承された茶道は今「和の美」を代表する文化として日本・世界の人々を魅了しています。
長い時代の変遷を乗り越え、今の時代にも泰然と存在する美には
先哲たちの魂が生きています。
長い年月を掛け、人の営みの中で磨かれてきた美は何物も犯しがたい存在なのです。
「型」から入り、心を知っていく、そして生活に密着していく。
まずは、繰り返し・繰り返しお稽古をする事から始まります。
着物も美しく装うには繰り返し繰り返し着物を着る事が遠周りのようでも一番いい方法の様です。